unplugged

アンプラグド[unplugged]: 生楽器だけで演奏すること

構ってちゃん考察

去年の夏辺りから〝構ってちゃん〟とは何なのか、ぼんやり考えていた。構ってちゃんとは寂しさに負けて他人に自らの寂しさを補って欲しい頻度が過多な人の総称である。


思考回路が、寂しい→誰か暇ですか?会えますか?という順番で即座に駆け巡り、人恋しさの余り他者がどう思うかまで想像できず「この人いつも一方的だな…」と受け手が違和感を覚える。この時初めて構ってちゃんはこの世に生を受ける。構ってちゃんとは受け手が相手に対して受ける印象なのである。


構ってちゃんと非構ってちゃんの違いはなんなのか。それはなんと言っても自分の持て余している寂しさを自分で処理することができるかどうかと寂しいという感情に対する反応の違いと言えるのではないか。


実際問題私が構ってちゃんに辟易してしまう時というのは大体いつも自己中心的な感情の穴埋めを相手に求めていることをLINE等の文面から察する時だ。


いやいやいやいや、友達というのはその穴埋めに使うものではないよ、と感じる時、私はアレルギー反応が起こり、むず痒い違和感を感じる。


「じゃああなたは寂しい時ないの?常に自分で他人の力を借りずに寂しさを処理しているの?」と聞かれたらそれは詭弁だと思う。


元々人は寂しい。でも其々に生活があり、構ってちゃんを構う事よりやるべき事ややりたい事がある。その事を慮ったら自分の寂しさを他人に擦りつけるなんて事は出来ないはずなのだ。そう言ってしまえば私はきっと冷たい人だと思われるのだろうが、まず自分の寂しさは自分だけのものなのだから、自分で自分を構ってあげることのほうが誰かに構ってもらう事よりも遥かに優先順位が高いと思う。

言ってしまえばそれが出来ない時、構ってちゃんはこの世界に生まれてくる。つまり構ってちゃんは自分で自分の機嫌を取るのが下手なのだ。

自己肯定感が高い状態で「いつ暇?遊ぼう!」の連絡は素直に「あなたに会いたいよ!」ということでこちらも素直に受け取ることができるのに、背後にある〝何か〟を察する事ができてしまうから空気を読むという第六感は実在するのだろう。


自分と常日頃対峙をしていてそれでも人恋しい時。それは構ってちゃんなのではなく、ただただ人恋しいのだ。

そういう瞬間を重ねて大人の色香は形成される。私は大人の色香を感じると萌えるので、そういう人に「会いたいな。」と素直に思うし、自分もそういう色香を持った人間で在りたいと思う。

 

孤独感の魔力というのは凄まじく孤独感を感じる時ほど人間が社会的生き物であることを感じる時はない。結局一人では生きていけない。人は人との繋がりがなくては生きていけない。そういう自分の弱さを認めた時、人と繋がって生きていく上での適切な距離感を学ぶ。

 

不思議と大人の色香を纏った人との交友は長続きする。それは相手を思い遣る配慮ができるからなのだろう。だから構ってちゃんに適切に対処する方法としては、距離間を察してもらう事に尽きる。ただ寂しさが溢れている構ってちゃんはそこまで思考が及ばない。だから彼ら彼女たちは「構ってちゃん。」と愛を込めて呼ばれているのである。

 

構ってちゃんに優しくできない時はそっと距離を保とう。大丈夫。あなたや私が構ってあげなくても構ってちゃんは違う誰かに構ってもらって自分の穴を埋めるだろう。大丈夫。お節介をしなくても自分にとって適切なタイミングで自分と向き合わなくてはならない日が必ず来るのだから。

 

それにしても。春ですなぁ。

 

資本主義と幸せ

資本主義について考察を始めると止まらなくなる。例えばインスタウォッチングをして色々な人を見ていると社会的に成功している人のインスタはやっぱり人気。美しくて賢くて人脈に恵まれお金持ち。そういう方の華々しい発信を見ていると資本主義社会に迎合して本当に賢いなといつも思う。努力なくして成功はあり得ないから尊敬もする。

現実を知り自分が何が出来るのか知り行動して結果を出し理想を叶えていくその生き方で人に良い影響を与える。…美徳が詰まっている。


ただ、そういう人が本当に幸せかどうかまでは分からない。


お金があることと社会的成功は幸せと必ずしも一致しない

この事実が私はとても面白い。

お金を持っていても社会的に成功していても自分にとって幸せが何か知り実践しないと本当に腹の底から幸せだという自己肯定感は生まれない。それ故に自分で自分の人生を終える人もいるので生きる上で根底的で致命的。


資本主義に迎合し自分の幸せとは何か知り実践すること。すっごい難しくて万人の答えが違う楽しいテーマ。本当に多くの人が「資本主義」と「幸せになりたい」に一度は取り憑かれる。そして取り憑かれてから目を醒まして自分を取り戻すための本当の人生が始まるようにも思える。


結局、資本主義・成功・幸せ・賢い・とかそういう概念に包括されずただ自分の人生に集中している人が最強。


でもそこに辿り着くまでは本当に本当に色々あって色々あり過ぎて本当に嫌になるけど、試行錯誤する自分を許して認めて励ませることができる自分で在れるなら、世の中の色々なパワーワードや概念から解放された生き方ができるようになると今は心から思う。でも実体験と実践がないと無理。自分に誠実な時間を重ねられる生き方をする努力は必要な努力。


多分この素晴らしい一冊を読んだ人は必ず感動し何かしらの影響を受け、彼女の生き方ややり方を真似ると思う。それが自分の生き方ややり方じゃなくても構わないと思う。試行錯誤をして自分のものにしていくことが大切なこと。幸せになりたいとは、本当の自分として生きていきたいということと同じ意味だから。


本当に素敵な本なのでおすすめします。

私はKindleで買いました。

吉川ひなの

わたしが幸せになるまで

 

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食肉

ヴィーガンになったりペスカタリアンになったりフレキシタリアンになったりしながらも薬膳マイスターを取得し、東洋医学に基づく漢方の考え方の影響を受けた現在の私は


妊娠したい女性や母乳を与えている産後の女性は特に肉を食べて良い、と考えている。


マクロビを実践していた知人が産後体が肉や魚を欲し、食べたらとても元気になったという話を聞いた事がある。これはつまり菜食主義に偏り血が足りなくなっていた体が肉と魚を食べることで血が補血された状態。西洋医学的にはタンパク質鉄分ビタミンB12が足りない状態と言える。

東洋医学では女性は血を補い、男性は気を補う事が大切と考えられている。女性は毎月の生理で血を体外に出す事からも血を補わなければならないのは理に適っている。


血が足りない状態を漢方では虚血という。そして、血が汚れ流れが悪くなった状態を瘀血という。

でも瘀血の状態でいくら血がサラサラになるからと言って玉ねぎを食べても血が足りていない状態では、実は意味がない。ドロドロに詰まった血管は結局血を増やして滞りを解消するのが一番手っ取り早くて効果的、ということを私は学んで実践して体で納得した。

 

【血を増やす】ということが女性の体と心の健康には不可欠なのだ。


【じゃあ肉や魚を食べないと血は増やせないの?】という疑問が湧く。

そんな事はない。

人参やプルーン、クコの実、ほうれん草、アボカド、ブロッコリー。これらの食材からも血を増やす事ができる。

ただ、代表的な食材として、赤味肉、豚肉、レバー、イワシ・サバなどの青魚、黒豆、卵、ウズラの卵。などがありこれらが有効な食材であることは中国何千年の歴史が証明している。

 


地球や動物のことを考えたら肉を食べるという事をやめたい、という理想が私にはある。その一方で体が本能的に肉や魚を欲する現実もある。私は肉の美味しさを知っているのだ。夏は焼肉とビールが絶対恋しくなる。


この矛盾をわたしは

ミートフリーマンデー

を設ける事で解消している。


矛盾だらけな私は今のところ、この方法で肉も魚も食している。


ミートフリーマンデーは肉を食べない日を設ける事。肉を食べない期間は肉を食べる罪悪感を払拭するために必要な時間であり、生きとし生きるものを頂く感謝と贖罪の儀式。


そんなに肉が嫌なら食べなければいいじゃんと思われると思うし、実際自分でもそう思う。でも体が欲する時は肉でも魚でも食べたいし外食も楽しみたい。だって私は現代人。焼き鳥屋さんが好き。餃子だってハンバーグだって好きなただの凡人なんだ。


そんな矛盾を『矛盾と共に生きれば良い』と心から思える様になり、やっと食肉問題をフラットな気持ちで考えられるようになった。


それは、この3年ミートフリーマンデーを続けてきたり、卵は平飼い卵しか買わないことを徹底したり、オーガニック野菜の定期購入、薬膳マイスターと漢方の養生指導師などの資格を取るするなどして知識を自分の味方にする事で、身体に判断を委ねる事ができるようになってきたからだと思う。


本当に何事も実践哲学と帰結する。


体の声を聞く、と言うとなんだか怪しくて語弊があるけど、体の声を聞くのってとっても楽しい。


昨日は忠実に体の声を聞いて、夫にだけリクエストのサムギョプサルをサニーレタス多めで提供し、私は春菊とツナの和物と人参のシリシリときび砂糖をかけたトマトで晩餐。


そうすると体が「不必要なものを摂らなくて幸せだ。ありがとう。」と言う。

必要な心身のメンテナンスをして焼肉を食べれば「お肉が食べれて幸せだ。ありがとう。」と体が言う。どっちも本当だから。


一方で動物達が虐殺されるように殺められ、人間に食べられるためにある命に対して、「ごめんなさい。」という気持ちを私は絶対忘れたくない。


いつだったか、一人でランチをしていたら、同じく一人ランチ中の男性が声に出して【いただきます】と、言った。

私はとても感動してしまったの。


私はいつからか恥ずかしながら「いただきます。」という言葉は作ってくれた人への敬意やマナーにすり替わっていた。本来は生き物への感謝だということを忘れていた。私はうるうるしながらホッケ定食を食べて一日中幸せだった。きっと彼に食べられたあのお魚は幸せだったと思う。

日本人は「いただきます」と「ご馳走様でした」という素晴らしい言葉をまず食べ物に対して言うべきなのに、お金を払った人へのお礼として使っている。これは本当に良くないとおもう。


私も彼のようにお肉やお魚に「あなたに食べてもらえて良かった。」と思ってもらえるような人になりたい。と心底思って惚れ惚れしてしまった。

実家で暮らしていた時から「いただきます」「ご馳走でした」を言う習慣が私はないのだけど、なんて素晴らしい言葉なんだろうと思う。真似したい。習慣にしたい。


私が感じていた違和感はきっと感謝と敬意と畏敬の念がぞんざいに扱われること。ごめんなさいとありがとうの気持ちでこれからも食と向き合っていく。


故に。ヴィーガンやマクロビを信念を持ち実践した時何か体の違和感を感じるなら、完璧に実践する必要なんてないと私は考えている。良い考え方ややり方を取り入れるだけで随分と地球にも動物にも自分にも優しくなれる。それで私は自分に合格点をあげることにした。


食べることは生きること、というくらいで生きることや死生観にも直結していく。

自分で作ったご飯に手を合わせて「いただきます」「ご馳走様でした」をしてみる。なんだか更に命の尊さと素晴らしさを感じて命はなんて素晴らしいのか、と自分の命に惚れ惚れした。


私は地球にも動物にも自分にも優しい人間である選択をした自分を重んじてあげたい。

愛について考える週末

ただひたすら〝愛〟について書かれたとんでもない情報量に線引いてシール貼りたくなる愛についてのガイドブックを読了。


『人間がそれぞれ孤立した存在であることは知りながら、いまだ愛によって結ばれる事がない。ここから恥が生まれる。同時に、罪と不安もここから生まれる。』


なんだか確信的な部分が世界で初めて活字にされたような瞬間に立ち会った気持ちになった。そうね。だから人は〝一体感〟を欲する。


一体感を感じられれば孤独感から逃れる事ができる。人類は〝孤独感〟とずっと戦ってきた生命体。確かに何かと一体となっている時だけ私たちは孤独を感じない。


何故、人に会いたいか?

 私たちが孤独だからだ。

何故、人は誰かと生きようと願う?

 私たちが孤独だからだ。


どれだけ本、映画、音楽、ゲーム、SNSの世界と一体となっても終わりが訪れる。私は人に現実逃避だと思われても映画を観るし本や漫画を読むけど、何かと一体化するために人生はあるのではないかと思うほど人は何かと一体化したくて生まれてきたに違いないと思う。


それにしても〝他人の役に立たなければ我々は一生孤独〟というワンフレーズの破壊力ったらすごい。

 

仕事をしないで子どもを持たないでどれだけの人が〝他人の役に立っている〟と言えるだろう。世の中で寂しくてふわふわ漂っている大人達は他人の役に立ちたくて自らを持て余しているのだ。

 

自己愛から世界と繋がるという視点で私はヨガを思い浮かべた。

ヨガの瞑想は神(宗教めいた意味ではなく高度なエネルギーという意味)との一体感を感じる事であるし、自分の可能性を信じる事でもあり、自分自身との連携を高める時間で自己愛でもある。一体となるということを体で心で感じること。ヨガを始めて自分を取り戻す人が多いのはそういうことでそういう仕組みなのだと思う。


私自身もヨガの恩恵に預かっているけど、最初は誰かや何かに依存することなく自分を律したい、仕事以外に日々継続する何かが欲しいという事から始まった。

ヨガって〝繋がる〟って意味らしいんだけど、本当に繋がってしまうのが恐ろしい。自分が次に取り組むべき課題に誘導されていく。ただアーサナと呼吸法瞑想に日々取り組むだけなのに人間の脳の回路は繋がっていくのです。スピリチュアルではなくラジカルにエビデンスもあるのです。

 

自己愛-他者貢献。

両者は一体となっているので自己愛無くして他者貢献はあり得ない。自己愛を認めることができないと他人を愛することができない。

一体となるには衝動と覚悟と忍耐が必要でそれを育んでいかないと愛なんて生まれないんじゃないか。やっぱり愛するというのは技術。

 

コロナ禍で個が重んじられる時代で本当の仲間や仲良くなりたい人、どうしてもの用事以外はスルーできる世の中になったからこそ〝どうやって人と繋がるか〟〝何と一体となるか〟は万人のテーマになっている。


でもその答えは。

愛する事に尽きる。

 

いまだ愛によって結ばれる事がない。にも、関わらず。

 

 

愛について考える週末でした。

ごきげんよう。ちゃんちゃん。

 

 

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私は東京を離れることにした

24歳の1月。私は札幌から上京した。初めて住んだ街は中野。物件の内見もしてない7万円くらいの1Kの一室。部屋を暖めても窓から冷気が入ってくることに気づいて梱包材のプチプチを窓に貼った。レースのカーテン代わりになって丁度良かった。置く場所がなくて冷蔵庫の上にレンジを置いた。一口コンロしかない小さなキッチン。ベッドと小さなテーブルとテレビでいっぱいになってしまう小さな部屋。典型的な初めての東京の一人暮らしが始まった。5月。好奇心から東京の水道水を飲んでみたらとても不味かった。後に結婚することになる人に「東京の水が不味すぎて吐いた。」と言ったら「東京の水は飲んだらいけないよ。」と言われ東京は異国の地なのだと知る。

 

ここは自分のいるべき場所じゃない。という違和感を最初に感じたのはいつだったか。遊び呆けていた19.20歳は札幌が好きで上京したいなんて思いもしなかった。大学は半年だけ通って中退し、アパレル店員になった。デザインが出来るようになりたくて半年だけ専門学校に行った。何で半年なのかというと閉校を理由に期間限定特別料金だったから。卒業してもだらだら水商売をして働いた。友達とルームシェアをして自堕落で節制のない生活をした。朝まで遊んでは昼まで寝た。一生分というくらい遊んだ。若さは無器。あの頃は昼夜逆転も厭わずお金がない中で遊ぶのが楽しかった。どういうわけだか楽しかったことばかり覚えてる。結局そんな生活が長く続くわけもなく、実家に戻って就職先を探した。割とすぐ制作会社の内定をもらって働き始めたのが21歳。恋愛と仕事しかしてない2年弱を経て自分の中で自然と東京に行く以外の選択肢が削ぎ落とされていった。

 

さぁ!東京に行って遊ぼう!と思っていたのに、あれよあれよと結婚することになった。そして夫の仕事を手伝う事になった。25歳。夫との結婚は今までの人生経験が全て活きたので〝この人と結婚するために今までの人生はあったのか〟と思うほどだった。

今と同じ新宿のタワーマンションの11階の彼の家に転がり込んで同棲が始まった。籍を入れて半年だけ同マンションの24階に住み、3年練馬に引っ越した。練馬は家賃が安くて広い家に住めるからだ。そのかわり東京なのに何もない。想像以上に何もない…。28歳の私は都会の刺激を求めて「東京に出てきたのにどうして練馬に住まないといけないんだ!」と痺れを切らし、新宿の同じマンションの23階に返り咲いて5年の月日が流れた。どれだけ今のマンションが好きなのか。

 

私にとって新宿は聖地で懐の深い街。上京して就職先の面接を受けるために泊まったホテルは歌舞伎町の東横イン。キャリーケースを引いて歩くのが怖くてタクシーに乗った。朝方部屋の窓から私より都会慣れしたカラスをみてこの街の一部に早くなりたいと願った。

無事上京した中野の一室で東京でやりたい事リストに一番最初に書いたのは笑っていいとも!の観覧に行ってタモリさんに会うこと。無事2回観覧に行けた。タモリさんのイラストの描かれたタオルハンカチをもらった。一日ズレてたらテレフォンショッキングのゲストが安部首相じゃなくてキムタクだった事は生涯忘れずに語り継いでいくだろう。

新宿という街は区役所がアジアで一番大きな歓楽街にありキャバ嬢ホストが騙し合いをしているかと思ったら、西でエリート達が働いている。路地にはホームレスが転がり、愛くらい自由にさせてよと新宿2丁目がある。伊勢丹は物欲の象徴としてそびえ新宿御苑では絵に描いたような幸せな人たちが仲良くピクニックをしている。嗚呼。なんと白黒コントラストの美しいこと。

 

私にとっては新宿が東京だった。

新宿が全ての原動力だった。と言っても過言ではないと思う。

 

都会の都会に住む、ということはお金が必要でお金が必要な状況なのに使わなければならないし貯金もしなくてはならない。必然的に夫婦共働きで仕事を頑張らなくてはいけなくて2人の会話は仕事の話ばかりだった。

 

愛する都会の夜景を傍らに仕事に2人で明け暮れながら便利で刺激的な街の恩恵を受けてきた。稼いでは貯め稼いでは貯め、夫婦で年に一度海外旅行に行った。挙式新婚旅行のハワイを皮切りに、バリ島2回、北京、バンコクプーケット、クアラルンプール。年越しを海外で4度経験した。温泉旅行には数えきれないほど理由をつけて行った。泊まりたいホテルや旅館に泊まっては「また来れるようにがんばろう。」と労働による疲労を癒した。

沖縄のあの青く透き通る透明な海の綺麗さは忘れないし、栃木の山の奥の奥まで車を走らせて入った源泉掛け流しの温泉と美味しすぎる料理の味は別格だった。お金をかけて毎度旅行に行っては忘れられない風景や経験を手土産に都会の都会での生活を楽しんだ。

2人の間にはお金の余裕ができるまで子どもは作らない、という共通の価値観があり貧乏でも愛があれば大丈夫とは全く思わなかった。海外旅行に行ける=お金があるって事じゃないことをよく理解した30歳という人生の節目の年齢になって子どもを意識し始め私が仕事を離れても会社が回る仕組み作りに3年の歳月を費やされた。

 

33歳の冬。もうすぐ桜が芽吹く頃。あと10ヶ月で東京10周年を迎える私は東京を離れることにした。

 

今までを思い返すために自分の半生を少し振り返ってみるとそれなりに色々な事を感じて始めて続けて決断をしてきたことが分かった。よく今日まで生きてきたなぁという気持ちになる。色々経験できてよかったね、と自分自身に声を掛けたい。人生は選択と継続の繰り返しでしかない事を思い知る。

 

大都会が好きで嫌いになれないが実際に生活してみて東京の良い所も嫌な所もよく分かった。東京は何でも揃っているのに何もない街。

頑張り続けないと暮らせない街。

本当に自分が求めている暮らしが便利で豊かな暮らしなのか東京にいると分からなくなる。

 

豊か・便利=善?

 

価値観の違いなはずなのにお金を稼いで良い暮らしをすることが東京では美徳とされている節が確実にある。「お金があるから幸せとは限らない。」身を粉にして働いてきたからようやく先人達の言葉を理解できるようになった。

 

自分を癒さないと人々は正気を保てず

消費をする。

 

ある人は孤独を持て余し街に繰り出す。

ある人は美食会。

ある人は美に磨きをかける。

ある人はエンタメの世界に浸かる。

ある人は疲労で壊れそうな体を癒す。

ある人はお酒に溺れる。

都会に居るが故のストレスとフラストレーションを消費という形で発散する。

 

大量の人々の孤独とストレスと娯楽で消費し、金が生まれ循環し成り立つ仕組みが確立されている。

 

抗えはしないその仕組みに薄々気づいてはいた。それでも飲食店で談笑している人々が千と千尋の豚になった両親のようにみえた時、理性を壊さないと住めない街で生きている証拠だと思った。

自分を保つための手段。

消費し消費されていることに気がつかずに居続けるのが一番正気を保てる方法で皆自分の身を守っている。

それを侮辱することも下品だと思うことも無く、ただただ儚いと思うばかりだった。

東京で頑張り続けても終わりがない事を思い知って訪れた有栖川宮記念公園は何の癒しも憧れも無かった。きっと私は都会に憧れてた人じゃなくて都会の人になったのだろう。

 

そんな想いが積もる頃コロナが大流行。今まで上辺だけで飲食できていたのはお酒の力だったのか。そんなに人に会わずとも生きていけた。そんな私でも友達がいなかったら気が狂っていただろう。レイトショー観ても歩いて帰ってこれるのが売りの立地に住んでるのにコロナ禍で映画上映時間は20時までになった。今となってはわざわざ21時〜に映画を観に行っていたのが信じられない。

 

「もう消費したくない。」

「もう消費されたくない。」

 

多分この感覚と生活と本音は元に戻ることはないだろう。行動によってもたらされる結果でしか答えを知る由はないけれど。

だから私はお金がないと幸せになれない街を出てみることにした。

都会=良いものという価値観を捨てる。

都会の都会に住んで自分が何を求めているのか人生の輪郭のようなものが見え、何に時間を使うべきか分かった。私はもう消費しないし、消費されない。できないと言ったほうが正確か。

 

引っ越しを決めてから強く思うこと。それは、

あと長くても4.50年の人生で自分が主役の人生じゃないとつまらない。そのためには都会で消費してる場合じゃないということ。

日常生活を旅のように営んで確実に自分の行きたい場所に自分を運べるように生きるために今度は都会の都会を離れてみる。きっとそれが本望だから。

 

今まで別れたどんな男より東京は離れがたく、自分の答えが正しいのか確かめるように恋しくて何度も何度も東京の街を歩いた。

住所が東京都新宿区新宿じゃなくなる事は、肩書きを失い大好きな彼氏の彼女でいられなくなるような気持ちと似ている。何処にも属さない個体に戻る解放感。属している安堵感から離れる不安な気持ち。好きな街と別れると自分で決めた事なのに一体どれだけの人が同じようにこの街に恋焦がれて夢焦がれて通り過ぎてきたのだろう。

 

さようなら東京。ありがとう東京。自分の人生を生きるために離れます。でも東京の事が大好きでした。夢をありがとう。

東京で出逢えた人、これから出逢う人、東京で戦ってきた全ての人に心からの敬意と愛を捧ぐ。

 

2021.2.28

 

 

女王蜂武道館ライブとキングダム

家に着いてダイニングの椅子に座り何もできずただ座っていたら3時間経ってた。…余韻が凄すぎて…動けなくて…いかんいかんと自分に鞭を打ってシャワー浴びてベッドに入って。黒幕やら夜曲やらコスモやらが脳内再生される中眠りに落ちました。


アヴちゃんは本当に圧倒的。あんな人いない。唯一無二。女王蜂=アヴちゃん。でも、今日はアヴちゃん以外のメンバーの話もしたくて。


1日目アヴちゃんがイヤモニが何処かにいってしまって困ってたら、やしちゃん(ベース)がそっと寄ってアヴちゃんの事を助けてアヴちゃんが「ありがとう♡大好き♡」って言ったシーンがあった。その時やしちゃんとアヴちゃんの関係性って本当素敵だよな〜って思った。


やしちゃんがファンクラブ限定のブログでいつだったか「容姿も演奏もずば抜けてない。中途半端な自分が嫌だ。」みたいな事を書いていた事があったんだけど。

その時、あーー私やしちゃん好きだわぁぁと思ったの。


だってアヴちゃんは他人を惹きつける魅力が凄くて人懐っこくて可愛くて美しくて華があってカッコよくてチャーミングで楽器も一通り弾けて自分で作詞作曲できて古風でトークも上手で頭の回転良くて聡明で圧倒的な存在だから。


そんな人の横にいたらメンバーは自分と比較してしんどくなる事もあったんじゃないかな。

女王蜂=アヴちゃん。

じゃあ自分は??????って。

 

 

黒幕という曲の歌詞でこんな歌詞がある。


幕が上がるから

なにもかも忘れたふりが出来るの

「誰かの為」なんて 

言いたくないもの

聞きたくないでしょう?

 

さあやるか やれよ やられるまえに

どこの誰に 誰かにされるまえに

ここはファイトクラブ

最後まで逃げ出せない奴だけのステージ

身を寄せ合えば消えるそんな孤独の類

それでも胸に降りる この黒い帳と、おり

 

私は誰かのために生きるより

自分のために生きる、ことのほうが

遥かに難しいと思っていて。

だからこの歌詞のこの部分が凄く好きなんです。ふふふ。

 

私の結論では、誰かのために生きる時期があっても良いと思うです。回り回って最後には自分のために生きるに直結していくわけだし、誰かのために生きるっていうのもなかなか出来ることじゃないと思うから。人生は経験でしょう?

 

だからやしちゃん。

 

とまで書いたところで、そろそろファンクラブのブログが更新されているんじゃないかしら?とファンクラブへアクセスしてみたらアヴちゃんのブログが更新されていました。


…もう。泣きそうになっちゃった。

 

一部だけ暗記したいので抜粋させてください。
「成功も失敗も、いつもどこかしら呆気ないもの。だけどその速さにこそ永遠と同等の熱量があると思うから。 」

ですって。


…泣けた。


アヴちゃんはキングダムでいうところの大将軍になる人。遂に武道館公演を達成したのに、「成功も失敗も、いつもどこかしら呆気ないもの。だけどその速さにこそ永遠と同等の熱量があると思うから。」とか言い放つ。大将軍にだけ見える景色を見ているんだろうなぁ。


大将軍にしか見えない景色ってあるけど、大将軍になる人についていったら自分1人では行けなかった場所に連れていってくれる。

人にはそれぞれ役割がある。

間違いなくやしちゃんとひばりくんとルリちゃんがいるから女王蜂。それだけはフロントマンが誰であっても絶対。それを武道館で確信して帰ってきた。

女王蜂の女王蜂は何処までも一緒に景色を見に行きたくなる人。その人の側にいる幸せも葛藤も全部含めて側にいるということ。そしてそれは全部自分が選んだ自分の人生。

 

やしちゃんに勝手に自分を重ねた。やしちゃんごめんw よし。私も自分の人生を行くよ。

 

幕が上がるから

なにもかも忘れたふりが出来るの

「誰かの為」なんて 

言いたくないもの

聞きたくないでしょう?


みんな大好き。

最高の2daysありがとうございました。

 

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2021.1.29 金 向上心不要説

向上心とは。あーしたい、こーしたい、こーなりたい。「もっと〇〇になりたい!」前向きな気持ちの現れ。良い事のように思えるけど、常に欲求不満で満足出来ていない事の現れのようにも思えて。向上心を持たず現状に満足できている人も居るのに「それでいいの?」と思ってしまったり。噛み砕けば噛み砕くほど向上心不要説が浮上するのです。

 

向上心なんてなければ人として成長したいなんて思わずに生きている事に意味を求めず考えず生きていけそう。でもそんな人生、嫌だなぁ。何か他にしっくりくる言葉はないかしら?そんな事を思いながら生活を営んでいましたら

「向上心じゃなくて好奇心じゃない?」

と自分に言われた気がして。それはどこまでも自由で伸びやかな可能性のある言葉のように感じられて単純な私は一瞬で、それだ!!と晴れやかな気持ちになりました。

 

きっと憧れの猫様だって好奇心を持って食器棚に登ったり、家の中の知らない場所を探検したり、「こんな事したらどーなっちゃうわけ?」って好奇心を持って生活はしているはず。

 

私が向上心だと履き違えていた事柄は全て好奇心だった。納得し、深く受領。

旅行好きも英語が喋れるようになりたいことも漢方やヨガの知識を身につけたい事も、本を読みたいのも、映画を観たいのも、全部好奇心。私は好奇心を原動力に生きている。

知らない事が知りたい。

出来ない事が出来るようになったら楽しい。

頭が良くなりたい訳ではない。

その状況に身を置いてる事が至福。

なーーんだ。私が向上心だと思っていたものはただの好奇心だったんだ。向上心なんて高尚なものではなかったと胸を撫で下ろしました。

 

よく「何を目指してるの?」と聞かれたりするんです。その度に「ん?」と返答に困っていたのですが。好奇心。好奇心ですね。完全に。今度からそう答えよう。

 

向上心不要説。

私にとって有力で有効な説。

人として成長したいとか、真っ当な人間で在りたいとか、逆に向上心なんか微塵もない人間だった。最低だけど最高。

ラクをするのではなく楽しむ。

そしてゴロゴロする。

楽しまずにラクをしてしまった時は罪悪感。

でもその罪悪感を感じないと楽しむのではなくラクをしようとするから、丁寧に感じる必要がある。

 

好奇心を簡潔に現すとワクワクでしょうか。

私はワクワクしながらゴロゴロしたいし、ワクワクしながらゴロゴロしている。

自分が大切にしてきたものが向上心じゃなくて好奇心だって気づいただけなのに、憧れの猫様のように充分暮らしてる事に気づく。知るを足る。色々な事が腑に落ちる静かな真夜中。

 

写真は先日の新宿の空。

白い月が青空に浮かんでいてなんだかとても綺麗でした。

 

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