unplugged

アンプラグド[unplugged]: 生楽器だけで演奏すること

私は東京を離れることにした

24歳の1月。私は札幌から上京した。初めて住んだ街は中野。物件の内見もしてない7万円くらいの1Kの一室。部屋を暖めても窓から冷気が入ってくることに気づいて梱包材のプチプチを窓に貼った。レースのカーテン代わりになって丁度良かった。置く場所がなくて冷蔵庫の上にレンジを置いた。一口コンロしかない小さなキッチン。ベッドと小さなテーブルとテレビでいっぱいになってしまう小さな部屋。典型的な初めての東京の一人暮らしが始まった。5月。好奇心から東京の水道水を飲んでみたらとても不味かった。後に結婚することになる人に「東京の水が不味すぎて吐いた。」と言ったら「東京の水は飲んだらいけないよ。」と言われ東京は異国の地なのだと知る。

 

ここは自分のいるべき場所じゃない。という違和感を最初に感じたのはいつだったか。遊び呆けていた19.20歳は札幌が好きで上京したいなんて思いもしなかった。大学は半年だけ通って中退し、アパレル店員になった。デザインが出来るようになりたくて半年だけ専門学校に行った。何で半年なのかというと閉校を理由に期間限定特別料金だったから。卒業してもだらだら水商売をして働いた。友達とルームシェアをして自堕落で節制のない生活をした。朝まで遊んでは昼まで寝た。一生分というくらい遊んだ。若さは無器。あの頃は昼夜逆転も厭わずお金がない中で遊ぶのが楽しかった。どういうわけだか楽しかったことばかり覚えてる。結局そんな生活が長く続くわけもなく、実家に戻って就職先を探した。割とすぐ制作会社の内定をもらって働き始めたのが21歳。恋愛と仕事しかしてない2年弱を経て自分の中で自然と東京に行く以外の選択肢が削ぎ落とされていった。

 

さぁ!東京に行って遊ぼう!と思っていたのに、あれよあれよと結婚することになった。そして夫の仕事を手伝う事になった。25歳。夫との結婚は今までの人生経験が全て活きたので〝この人と結婚するために今までの人生はあったのか〟と思うほどだった。

今と同じ新宿のタワーマンションの11階の彼の家に転がり込んで同棲が始まった。籍を入れて半年だけ同マンションの24階に住み、3年練馬に引っ越した。練馬は家賃が安くて広い家に住めるからだ。そのかわり東京なのに何もない。想像以上に何もない…。28歳の私は都会の刺激を求めて「東京に出てきたのにどうして練馬に住まないといけないんだ!」と痺れを切らし、新宿の同じマンションの23階に返り咲いて5年の月日が流れた。どれだけ今のマンションが好きなのか。

 

私にとって新宿は聖地で懐の深い街。上京して就職先の面接を受けるために泊まったホテルは歌舞伎町の東横イン。キャリーケースを引いて歩くのが怖くてタクシーに乗った。朝方部屋の窓から私より都会慣れしたカラスをみてこの街の一部に早くなりたいと願った。

無事上京した中野の一室で東京でやりたい事リストに一番最初に書いたのは笑っていいとも!の観覧に行ってタモリさんに会うこと。無事2回観覧に行けた。タモリさんのイラストの描かれたタオルハンカチをもらった。一日ズレてたらテレフォンショッキングのゲストが安部首相じゃなくてキムタクだった事は生涯忘れずに語り継いでいくだろう。

新宿という街は区役所がアジアで一番大きな歓楽街にありキャバ嬢ホストが騙し合いをしているかと思ったら、西でエリート達が働いている。路地にはホームレスが転がり、愛くらい自由にさせてよと新宿2丁目がある。伊勢丹は物欲の象徴としてそびえ新宿御苑では絵に描いたような幸せな人たちが仲良くピクニックをしている。嗚呼。なんと白黒コントラストの美しいこと。

 

私にとっては新宿が東京だった。

新宿が全ての原動力だった。と言っても過言ではないと思う。

 

都会の都会に住む、ということはお金が必要でお金が必要な状況なのに使わなければならないし貯金もしなくてはならない。必然的に夫婦共働きで仕事を頑張らなくてはいけなくて2人の会話は仕事の話ばかりだった。

 

愛する都会の夜景を傍らに仕事に2人で明け暮れながら便利で刺激的な街の恩恵を受けてきた。稼いでは貯め稼いでは貯め、夫婦で年に一度海外旅行に行った。挙式新婚旅行のハワイを皮切りに、バリ島2回、北京、バンコクプーケット、クアラルンプール。年越しを海外で4度経験した。温泉旅行には数えきれないほど理由をつけて行った。泊まりたいホテルや旅館に泊まっては「また来れるようにがんばろう。」と労働による疲労を癒した。

沖縄のあの青く透き通る透明な海の綺麗さは忘れないし、栃木の山の奥の奥まで車を走らせて入った源泉掛け流しの温泉と美味しすぎる料理の味は別格だった。お金をかけて毎度旅行に行っては忘れられない風景や経験を手土産に都会の都会での生活を楽しんだ。

2人の間にはお金の余裕ができるまで子どもは作らない、という共通の価値観があり貧乏でも愛があれば大丈夫とは全く思わなかった。海外旅行に行ける=お金があるって事じゃないことをよく理解した30歳という人生の節目の年齢になって子どもを意識し始め私が仕事を離れても会社が回る仕組み作りに3年の歳月を費やされた。

 

33歳の冬。もうすぐ桜が芽吹く頃。あと10ヶ月で東京10周年を迎える私は東京を離れることにした。

 

今までを思い返すために自分の半生を少し振り返ってみるとそれなりに色々な事を感じて始めて続けて決断をしてきたことが分かった。よく今日まで生きてきたなぁという気持ちになる。色々経験できてよかったね、と自分自身に声を掛けたい。人生は選択と継続の繰り返しでしかない事を思い知る。

 

大都会が好きで嫌いになれないが実際に生活してみて東京の良い所も嫌な所もよく分かった。東京は何でも揃っているのに何もない街。

頑張り続けないと暮らせない街。

本当に自分が求めている暮らしが便利で豊かな暮らしなのか東京にいると分からなくなる。

 

豊か・便利=善?

 

価値観の違いなはずなのにお金を稼いで良い暮らしをすることが東京では美徳とされている節が確実にある。「お金があるから幸せとは限らない。」身を粉にして働いてきたからようやく先人達の言葉を理解できるようになった。

 

自分を癒さないと人々は正気を保てず

消費をする。

 

ある人は孤独を持て余し街に繰り出す。

ある人は美食会。

ある人は美に磨きをかける。

ある人はエンタメの世界に浸かる。

ある人は疲労で壊れそうな体を癒す。

ある人はお酒に溺れる。

都会に居るが故のストレスとフラストレーションを消費という形で発散する。

 

大量の人々の孤独とストレスと娯楽で消費し、金が生まれ循環し成り立つ仕組みが確立されている。

 

抗えはしないその仕組みに薄々気づいてはいた。それでも飲食店で談笑している人々が千と千尋の豚になった両親のようにみえた時、理性を壊さないと住めない街で生きている証拠だと思った。

自分を保つための手段。

消費し消費されていることに気がつかずに居続けるのが一番正気を保てる方法で皆自分の身を守っている。

それを侮辱することも下品だと思うことも無く、ただただ儚いと思うばかりだった。

東京で頑張り続けても終わりがない事を思い知って訪れた有栖川宮記念公園は何の癒しも憧れも無かった。きっと私は都会に憧れてた人じゃなくて都会の人になったのだろう。

 

そんな想いが積もる頃コロナが大流行。今まで上辺だけで飲食できていたのはお酒の力だったのか。そんなに人に会わずとも生きていけた。そんな私でも友達がいなかったら気が狂っていただろう。レイトショー観ても歩いて帰ってこれるのが売りの立地に住んでるのにコロナ禍で映画上映時間は20時までになった。今となってはわざわざ21時〜に映画を観に行っていたのが信じられない。

 

「もう消費したくない。」

「もう消費されたくない。」

 

多分この感覚と生活と本音は元に戻ることはないだろう。行動によってもたらされる結果でしか答えを知る由はないけれど。

だから私はお金がないと幸せになれない街を出てみることにした。

都会=良いものという価値観を捨てる。

都会の都会に住んで自分が何を求めているのか人生の輪郭のようなものが見え、何に時間を使うべきか分かった。私はもう消費しないし、消費されない。できないと言ったほうが正確か。

 

引っ越しを決めてから強く思うこと。それは、

あと長くても4.50年の人生で自分が主役の人生じゃないとつまらない。そのためには都会で消費してる場合じゃないということ。

日常生活を旅のように営んで確実に自分の行きたい場所に自分を運べるように生きるために今度は都会の都会を離れてみる。きっとそれが本望だから。

 

今まで別れたどんな男より東京は離れがたく、自分の答えが正しいのか確かめるように恋しくて何度も何度も東京の街を歩いた。

住所が東京都新宿区新宿じゃなくなる事は、肩書きを失い大好きな彼氏の彼女でいられなくなるような気持ちと似ている。何処にも属さない個体に戻る解放感。属している安堵感から離れる不安な気持ち。好きな街と別れると自分で決めた事なのに一体どれだけの人が同じようにこの街に恋焦がれて夢焦がれて通り過ぎてきたのだろう。

 

さようなら東京。ありがとう東京。自分の人生を生きるために離れます。でも東京の事が大好きでした。夢をありがとう。

東京で出逢えた人、これから出逢う人、東京で戦ってきた全ての人に心からの敬意と愛を捧ぐ。

 

2021.2.28