unplugged

アンプラグド[unplugged]: 生楽器だけで演奏すること

構ってちゃん考察

去年の夏辺りから〝構ってちゃん〟とは何なのか、ぼんやり考えていた。構ってちゃんとは寂しさに負けて他人に自らの寂しさを補って欲しい頻度が過多な人の総称である。


思考回路が、寂しい→誰か暇ですか?会えますか?という順番で即座に駆け巡り、人恋しさの余り他者がどう思うかまで想像できず「この人いつも一方的だな…」と受け手が違和感を覚える。この時初めて構ってちゃんはこの世に生を受ける。構ってちゃんとは受け手が相手に対して受ける印象なのである。


構ってちゃんと非構ってちゃんの違いはなんなのか。それはなんと言っても自分の持て余している寂しさを自分で処理することができるかどうかと寂しいという感情に対する反応の違いと言えるのではないか。


実際問題私が構ってちゃんに辟易してしまう時というのは大体いつも自己中心的な感情の穴埋めを相手に求めていることをLINE等の文面から察する時だ。


いやいやいやいや、友達というのはその穴埋めに使うものではないよ、と感じる時、私はアレルギー反応が起こり、むず痒い違和感を感じる。


「じゃああなたは寂しい時ないの?常に自分で他人の力を借りずに寂しさを処理しているの?」と聞かれたらそれは詭弁だと思う。


元々人は寂しい。でも其々に生活があり、構ってちゃんを構う事よりやるべき事ややりたい事がある。その事を慮ったら自分の寂しさを他人に擦りつけるなんて事は出来ないはずなのだ。そう言ってしまえば私はきっと冷たい人だと思われるのだろうが、まず自分の寂しさは自分だけのものなのだから、自分で自分を構ってあげることのほうが誰かに構ってもらう事よりも遥かに優先順位が高いと思う。

言ってしまえばそれが出来ない時、構ってちゃんはこの世界に生まれてくる。つまり構ってちゃんは自分で自分の機嫌を取るのが下手なのだ。

自己肯定感が高い状態で「いつ暇?遊ぼう!」の連絡は素直に「あなたに会いたいよ!」ということでこちらも素直に受け取ることができるのに、背後にある〝何か〟を察する事ができてしまうから空気を読むという第六感は実在するのだろう。


自分と常日頃対峙をしていてそれでも人恋しい時。それは構ってちゃんなのではなく、ただただ人恋しいのだ。

そういう瞬間を重ねて大人の色香は形成される。私は大人の色香を感じると萌えるので、そういう人に「会いたいな。」と素直に思うし、自分もそういう色香を持った人間で在りたいと思う。

 

孤独感の魔力というのは凄まじく孤独感を感じる時ほど人間が社会的生き物であることを感じる時はない。結局一人では生きていけない。人は人との繋がりがなくては生きていけない。そういう自分の弱さを認めた時、人と繋がって生きていく上での適切な距離感を学ぶ。

 

不思議と大人の色香を纏った人との交友は長続きする。それは相手を思い遣る配慮ができるからなのだろう。だから構ってちゃんに適切に対処する方法としては、距離間を察してもらう事に尽きる。ただ寂しさが溢れている構ってちゃんはそこまで思考が及ばない。だから彼ら彼女たちは「構ってちゃん。」と愛を込めて呼ばれているのである。

 

構ってちゃんに優しくできない時はそっと距離を保とう。大丈夫。あなたや私が構ってあげなくても構ってちゃんは違う誰かに構ってもらって自分の穴を埋めるだろう。大丈夫。お節介をしなくても自分にとって適切なタイミングで自分と向き合わなくてはならない日が必ず来るのだから。

 

それにしても。春ですなぁ。