unplugged

アンプラグド[unplugged]: 生楽器だけで演奏すること

bar diversion

その日、高野洋子が朝一番にした事は夫が自慰をした後のティッシュを片付ける事だった。こんなに朝なのに。世界は明るいのに。夫の真司とセックスレスになってもう3年半の月日が経とうとしていた。洋子はベッドで眠るが、真司はソファーで眠る事が増えた。仕事のストレスなのか一日の最後に真司は晩酌をし、そのままソファーで寝てしまうのだ。二人に子どもはいない。だからと言ってセックスレスが離婚の要因にはならず、夫婦は日々を営んできた。新しくて大きなアクションを起こす気にはなれないし、夫のことを愛していた。それでも男女として終わってしまったのか、という悲しさは絶えず洋子を苦しめた。

仕事を終えた洋子を夜の帳が包んだ時、洋子はそのまま家に帰りたくなかった。今日はなんだかやるせない。真司は今日会食で帰りが遅いし何処か気晴らしのできる場所に身を寄せたかった。また明日が来ることは分かってる。だから切り替えよう。自分をリセットしよう。そう思いながら、洋子には行きつけのバーに吸い寄せられるかのように向かい始めた。

目的地の決まった安心感にほっと胸を撫で下ろしながら、冷え始めた東京の乾いた風を吸い込んだ。いつだってそうだ。旅行も辿り着いた目的地よりも目的地に辿り着くまでの移動の時間が好き。何も考えなくても目的地まで連れて行ってくれるから。目的に向かうまでの過程でいつも沢山の人とすれ違う中、皆目的地を持って移動していることに不思議な感覚に陥ることがある。

仕事先帰る家食事に行く店本屋学校映画館イベント病院繁華街公園美容室ジム習い事。この世界は目的地に溢れているし誰もが付加価値を求めている。

でも目的が分からなくなった時はどうしたらいいんだろう。自分の孤独をパンにジャムをつけるように人に擦りつけることはできない。みんな抱えきれない孤独を持て余した時どうしているんだろう。そんなことを考えながらbar diversionの入っているビルまで辿り着いた。階段を登る。胸が高鳴る。

 

黒くて重厚な扉。この向こう側にいる時だけは絶対に大丈夫。

ドアを開けると、溶けていくようにbar diversionでの自分を演じ始めるのだった。



1

 

重たいドアを開けると薄暗い照明が顔を隠してくれる。ここではのっぺらぼうになれる。歌詞のない心地の良いジャズミュージックは思考を止めて心を軽やかにしてくれる。靴の裏は柔らかな絨毯を踏み靴音は消えた。暗闇の中で目に映るのは照明にライトアップされた赤いお店のショップカードだけ。重いドアが閉じると雑踏は遮断され、日常から非日常にトリップが完了する。

「いらっしゃいませ。」

マスターがカウンターの中からこちらをみて微笑んでいる。おかえりなさい、と言われたようだった。「こんばんわ。」と洋子は笑いながら挨拶を返した。

洋子はカウンターに向かい、腰を下ろした。いつも窓側の席。マスターと一番近い席。カウンターには熟成された生ハムが置かれ、カウンターの奥には百は優に超えるであろうお酒が整然と陳列している。目がこの空間に慣れてくると注文するお酒を選ぶために視線をメニュー表に落とす。その側でカチャカチャとマスターがチャームをつくる音がする。頭が回らないからとりあえずジン・トニック飲みながらまた考えよう。ここのジンは美味しいんだ。

洋子はメニュー表を閉じ、頭の電源をオフにして生ハムを眺めた。そもそもこの肉は塩漬けして時間を置かなければ腐っている。でも状態を変えてここに存在している。この肉は生ハムとしてこの店に運ばれてさぞ幸せだろう。私も夫と塩漬けしたように生きている。元々違う素材の2人が塩漬けされて腐らず形を変えて共存している。他人からみればきっとそれは幸せそのもの。私の抱えている悩みなどただの贅沢な悩みだ。

 

「幸せという漢字の語源は手錠をかけられた人間の姿。制限のある中で自由と有り難さを感じられる感謝のある生き方が幸せな生き方なんだよ。」

昔祖母に言われた言葉が右から左へと走馬灯のように流れ込んできた。洋子はじっと生ハムに見入った。塩漬けされて腐らずに価値を提供し続ける肉。熟成し旨みが増し良い状態の肉。塩気の角が取れ丸くなり美味しくなった肉。

生ハムの向こうからマスターが帰ってくる。視線がぶつかって洋子は笑いながら踵を返した。

「どうぞ」と目の前にお洒落な酒の肴が運ばれてきた。「なんかすごいお洒落なんですけど。」洋子は尋ねた。

「今日はイチジクとブルーチーズ。こちらは鯖のオリーブオイル漬け。あとオリーブはこちらからのサービスです。」マスターは微笑み洋子は感謝を述べた。

「お酒どうされます?」洋子に注文を尋ねるマスターの声はいつも涙が角がなくて優しい。「なんか、この生ハムみてたら生ハム食べたくなっちゃって。一枚頂いてもいいですか?あと生ハムに合うような赤ワインを使ったカクテルって何かありますか?」洋子の中からジン・トニックは消えていた。

 

「マスター。マスターは大人になるってどういう事だと思います?」

三杯目のワインを飲みながら洋子は言った。

きょとんとしたマスターの顔を見ずに洋子は何処か空を見ながら話を続ける。

「私ね、思うんです。大人になるっていうのは虚しさや小さな絶望を重ねてそれでも生きてる事だって。だから大人は敬わなければならない。そんなの分からなかったですけど。今はそう思うんです。」

一切の迷いなく洋子はマスターの目をみて続けた。

「だから私にはここが必要。だって私は大人だから。バーは大人が大人であるために必要な場所。子どもは入れない大人の特権って感じが最高。だから大人はバーに行くと思うの。ここに来ると私大人になって良かった、ってささやかな幸せを感じる事ができるの。マスターありがとう。」洋子は噛み締めるように言った。

 

「ありがとうございます。僕もそう思います。ここの店名ディパーションっていうのは息抜きって意味なんです。息抜くことは生き抜く事、かなって。」マスターの丸山はワイングラスを磨きながら答えた。

 

「ほんとうに。息抜きが上手な人は生きるの上手だなぁって思うわ。そうよ。息抜く事に罪悪感なんて持たなくていいわよね。ほら意識高いとか低いとかあるじゃない。意識高く生きないと自分の生きてる時間の使い方は勿体ないのかなって何処かで比較してしまう自分がいて罪悪感を感じる時があるの。現実逃避のような気がちゃって。でもそういう時があるから頑張れるし、生きてるって時点で頑張ってる。だからこそ偉いなって褒めてあげなくちゃね。」洋子はほとんど息継ぎをせず喋って微笑んだ。追加で注文したガーリックトーストのサクッという音が鳴る。

 

店主の丸山は応えた。「生きてるだけで凄いって本当そうだと思いますよ。なんて言うか…夢とか目標ってその時の自分の状態で全然違うというか。自分に自信がなくて生きるために自分を保護するために夢や目標が存在してしまう時だってあるし。夢や目標があるから凄いってわけでもないですよね。生きてるだけで凄い、って何のプロテクトもなく堂々とされてしまうと逆にコイツすげー、って思いますもん。」

 

急に洋子は驚いた顔で言った。

「私ここに来るまでにみんな持て余している孤独をどうしてるのかなって考えてたんです。だってみんな孤独な筈でしょう?なのに平然とした顔をして生きてる。みんな魔法瓶の中に普段は孤独を閉まってるけど、こうやって話すと出てくるんですね。そっか…だからコミュニケーションって大切なんですね。」

 

そう言うと洋子は自分で言って自分で納得した様子でお会計をし、「マスター、今日私来て本当に良かった!自分のやるべき事が見えた気がする!」と三杯目の最後の一口のワインを飲んで急足で帰っていった。

 

現実を生きているリアルな人の余韻が丸山の中に少し残った。それも半刻待たずにすぐ消えた。