unplugged

アンプラグド[unplugged]: 生楽器だけで演奏すること

脱毛

何故、女に生まれるとわざわざ「毛」にお金を払って脱毛をしなくてはいけないのだろう。いや、決して女だからってみんながみんな脱毛をしないといけないわけではないし、ありのままの姿を曝け出して威風堂々を生きているアナと雪の女王もいるだろう。

女が脱毛をするのは美意識だ。美意識とは他者の存在があって成り立つものである。第三者の目を気にすることは社会性があるってことだろうし。

これは私の推測なのだが、脱毛と言うのはある種の性行為を経験するまでに通るイニシエーションなのではないか。毛の処理からしてもうイニシエーション・ラブにおいての一連の儀式。

 

イニシエーション、と書いて自分でこれは大袈裟かなと思いながらも「毛」と対峙した向こう側には異性を意識した自分がいて「毛」に意識を注いだ時、そこにはまだ融合していない混じりっ気のないピュアな女性性があるのではないかと推測した。ここではLGBTの方を含めた言い方をできないのだけど、つまりあれだ、異性を意識する春の訪れは自然と自分の毛が気になるんじゃない?って事。学生の時あんなに腕毛やら脇毛やら足毛を気にしたのは絶対的に異性の目だ。女の花園であればちょっと毛がチクチクしたって気にしない。来るべきその日に備えて女たちは毛を整え始め、自分に恥ずかしい箇所はないかと点検をする。私は全裸監督に出てきた脇毛の女性のように脇毛を自分のポリシーとは思わず、いとも簡単にイニシエーションに及んだ。

 

若かりしき頃を思い返してみたら、初めてのセッ クスの時、自分の“まんまんの毛”は彼の目にどう映るのかと考えてみたものだ。男性器と女性器の出会い。いざ始まってみたら毛の事なんてこれっぽっちもどうでも良いのだが。無心でお逝きになる頂を目指す登山が始まり逆にこの毛も生々しくていいのではないかという気すらした。

 

私がこんな話をしているには理由がある。何も理由がなくてまんまんの毛の話を持ちかけたのではない。私は長年温存していた「まんまんの毛を全て無くすという行為」に今及んでいるのである。つまりパイパン化計画を実行したのだ。

 

最初のトライは26歳の時。パンティーからはみ出るアイラインの毛が本当に気持ち悪く全体的にもっと構造を細くして上の方も短くして、所謂「のり」にすることを志した。しかし志し半ばで計画は崩れた。デリケートゾーンの脱毛は体が飛び上がるほどの痛かったのだ。決して大袈裟ではなく私は体を退けぞって痛がりエステティシャンを驚かせた。自分のASOKOを他人に見られている恥ずかしさよりも、痛さで頭の中がいっぱいになり、光を当てる度に歯を食いしばり顔は苦痛で歪んだ。分かりやすくいうとまんまんに激アツの針のような鋭い痛みが連続でいらっしゃると言うと痛さが伝わるだろうか。機械を当てるタイミングでいつも息を殺して機械が離れると息を吐いて私の呼吸は完全に機械が支配した。それが私のファースト・パイパン・コンタクトだ。

2回目のトライでもそれは変わらず私は、こんなに痛いならもうまんまん生えっぱで生きていく!と戦場から離脱したのだ。

 

それ以来この茂みと共に共存の道を生きてきた。トイレに落ちているこの縮毛私の?旦那の?って拾う日もあれば、水着を切る前に相変わらずパンティーからはみ出るアイラインの毛やVやVの上の毛の整理整頓をしなければいけない日が続いた。その年月6年。時は満ちたのだ。

 

私は再び生茂る茂みと対峙した。相変わらずそこにいる彼ら彼女たちを見ていると生きている生命力すら感じた。でももう決めたのだ。ゴーストバスターするんだ!もうパンティー抗力でついた寝癖も気にならない爽快な日々を送るんだって。

 

6年の年月が流れ、あの痛さが軽減された最新のゴーストバスターは毛周期という概念もなく月に一回処理できる仕様に変わっていた。

黒に反応する機械じゃないから白髪だって脱毛できることには驚いた。冷たいジェルを塗るのは顔だけで体はローションだけ。日焼けした状態でもできるし、イボやホクロ痣も気にしないで照射可能。産毛にも効く。そして本当に痛くない。デリケートゾーンだけちょっと痛い時があるくらいで大部分の脱毛を23歳までに終えている私は寝ていられるレベルだ。

 

金額があんまり変わらないから全身にした。ちょっと生えてる足の親指の毛や、たまに手入れする鼻の下頬ともみあげのフワフワした毛、おでこに生えてる白髪もここで23万7600円と共におサラバだ。

 

最初の脇と膝下。おでこの脱毛。時折通ってたクリニックの脱毛。計算してみたら50万くらい脱毛にお金を費やしているんじゃないかと今気づき、ゾッとした。お小遣い込みでハワイに行ける。私はハワイ1回分を毛の処理に使っている。でも不思議と後悔はない。

 

だってこの体とは死ぬまで付き合っていく。

 

考えてみたら「本当はいらないもの」を毎日少しずつ気にして生きていったらその蓄積は相当なストレスにならないか。

 

毎日1回、同じストレスを続けたら単純に365回。私はパンツを下ろして便器に座る度に毛に無意識に想いを馳せていた気がするし、本当は全ていらないと思ってるのにパイパンを選ばす無難なノリを選ぼうとする自分と戦っていた。手放す選択をして本当に楽になった。

温泉に友人と行く時下の毛がなくて変に思われるかもしれないし、温泉で知らないおば様にASOKOが凝縮されるかもしれない。でも例え栗とリスが「こんにちわ!」しても旦那に嫌がられたとしても

「This is me!!」と全裸監督の脇毛をポリシーと言い放ったあの女性のように思うことができる。

 

だってこの体と生きていくのは私だ。

 

ストレスフリーというのは本当は必要ないものからどんどん身軽になっていくことと実は同意なのではないかと思う。だとしたら私はストレスフリーで生きていく。

ダイソンのようにどんな微細なゴミも近づけないとまではいかなくても、どうやったらストレスフリーで生きていけるかアイディアを振り絞るし、ストレスフリーじゃない原因が自分にあるのなら改良することをチョイスする。

嫌いな同僚とどうやったらお互いの良さを殺さず尚且つ自分自身が楽でお互いがうまいことやっていけるだろうって考えて実行するのは処世術と言えるだろう。ストレスフリーは私の人生のテーマとも言えるかもしれない。

 

毛。それは渚にまつわるエトセトラみたいなもの。

美容院に行けば死んだ細胞に潤いを与え整えることにお金を払い、体を守るために生まれてくる毛を抜く。それに多額の金を生まれてから死ぬまでの間に多くの女性は払うことになる。死んだ細胞だとは分かっていながら美しく在る髪や体や爪に満たされる。死んだ細胞をどう扱うかというのは「美を細に宿す」と言う事なのなのだ。

 

一年後私は完全にパイパンになる。ゼロになる。

きっと無意識のうちに引っ張られていた毛のことなど忘れて私の体から“まん毛という体の部位”が消える。その後の人生でまん毛に意識を引っ張られることなく生きていく。今度はみんなあるのに私はない事が気になる日がくるかもしれない。

 

でもその決定権が自分にあり、“人の目を気にしてパイパンを選べずに死んだ人生を送った自分”にならなかった自分が好きだ。

 

人生の後悔が一つ減った。また成仏に近づいた。

それまで月に一回エステティシャンに立木のポーズでASOKOを見せ続ける。でもそれでも私に後悔はない。