unplugged

アンプラグド[unplugged]: 生楽器だけで演奏すること

私物と財布とお金との付き合い方の歴史

HERMESのピンクのポーチ。その中にはabrAsus(アブラサス)の薄い財布と細いキーケース。Diorのカードケース。frictionのボールペン赤青黒三色。英語単語帳。スケジュールと生理予定日だけ書き込める薄い手帳。小さいアトマイザーにCHANELのCHANCEの香水。頂き物のukaのネイルオイル。夏には手放せないBioreの汗拭きシート。567時代の三種の神器の除菌ジェルも忘れずに忍ばせて。

そして、そのポーチをCartier展で買った1500円のトートバッグに入れる(そこ、本物のCartierじゃないんかい! 笑)

ロールタイプの日焼け止め。CELINEの日傘。一番小さいサイズのイロハス。充電済みの携帯をinしたら、マスクを顔にon。夏用の洗えるマスクの横でチャームが揺れる。

これで私スタイルの完成。

 

人の持ち物には個性が滲み出る。どんなにこだわるなと言われてもこだわりたいものがある。昔は財布にこだわっていた。お札が折れるのが嫌で上質な革の黒の長財布を探した。21歳の時ピッタリなソレに出会い「お金が入ってきますように。」って買ったGUCCIは未だに私のお金の総本山としてヘソクリ用に大切に使ってる。大切に使っていたから今でも全然使える。

 

「財布は3年毎に変えるべし。」そんな話を聞くけど、心トキメク品にはずっと鎮座して頂きたい。2代目の財布は白の蛇革。使うにつれて味が出てきて滑らかで艶々で気に入っていたのにある日、「味」が「汚れ」に見えた(笑)

〝財布を買い換えたいタイミング〟は〝髪の毛を切りたくて仕方なくなってしまうあの感覚〟と似ている。白蛇は海外行くとき用の財布として現在は鎮座。

 

時代の流れでカード決算が主流になり、お札を以前ほど使わなくなってきてDiorのカードケースを購入。どんどんミニマリストになっていく自分がいて、長財布をやめて、数枚のお札とお釣りの小銭を試しに入れてみた。ある日、手品のようにお札がレジ前で溢れてちっともエレガンスじゃないやん、って唖然。

 

そして3代目の今のabrAsusに出会う。

abrAsusは最高にミニマルで機能的。お値段も2万円以下。これなら、〝髪の毛を切りたくて仕方なくなってしまうあの感覚〟が来た時、サッと買い換えることができる。

数枚の新鋭の本当に使うカードだけ収納できて小銭も千円分だけ収納可能。秘密の収納には実家の鍵をお守り代わりに入れている。

キーケースと小銭入れが一体化しているから、小銭は小銭入れにいれたい派の私のこだわりも見事に再現。イタリア製。本革。これで1万円しないのだから、本当abrAsus様々。

 

曲がってないお札へのこだわりが薄れた時、ようやく誰かや社会の固定概念や定義ではなく、自分流のお金のスタイルみたいなものが形成された気がした。

 

お札は曲がったって価値は変わらない。

大切にしたかったのはお金との付き合い方。

 

もし自分が「何かの店のオーナー」でお客様にお釣りとして渡すとしたら、そのためだけに真っ新なピン札を用意するかもしれない。それはきっとお客様への自分の態度。

 

でも何百回と買い物してきたけど、店員さんはそんな事気にせず、機械のレジにお札を入れてお札は旅に出る(笑)ピン札好きな友達はいてもお札が曲がってても文句をいう友達は私はいない。向きがバラバラだって、毎月最低限稼げてマイナスになった事は今まで一度もない。

 

私物や財布を振り返ると、なんだか私の歴史が見えてきた。

 

最近は「重たいから。」という理由でハイブランドのバッグを使っていない。小さいくせによく入るGUCCIはスタメン。トキメクからね。いつだってハイブランドだから。」ではなく「自分が使いたいか。」を基準に物と付き合ってきた私のこだわり。

 

ファッションは人の心の表面。

 

UNIQLOのTシャツにジーンズも大好きだけど、例え背伸びだとしても、本当に心トキメクモノに背伸びして大人の階段を登って来たのかな。ハイブランドの素晴らしい点は「このブランドを着こなせる自分であろう」と、努力する点。

 

ココ・シャネルがカッコイイのは、服やバッグを作ったじゃなくて、スタイルを作った人だから。ちょっとでもそんな格好いい人のエネルギーを自分に分けてもらって、凛としていたい。素敵だと思う人の影響を受けていたい。

 

そんなこんなで、私は着飾るためではなく、定期的にハイブランドを自分に買い与える事をやめない。

ハイブランドに相応しくない自分なんて…」なんて卑屈な女にもならない。

言い訳もしない。

ハイブランドを身につけないと自分に自信が持てない女にもならない。

かと言って「全身ハイブランドな人は実は自信がないんじゃない?」なんて、おかしな女のマウンティングも、しない・させない・巻き込まれない(笑)

 

こだわってこだわりを削いで、最後に残ったこだわりは自分のオリジナル。

 

高い物でも本当に欲しいなら値段や肩書き、イメージに囚われず手に入れてみたら良いと思う。物では埋まらない心のスペースや渇きは必ずある。それは実際の自分と物との「差。」でもそれは実際に金や物で埋めないと分からない事。何も手にしない綺麗事でそれが分かるわけがない。

 

物に金をかけるのか。

物より金を貯めるのか。

経験に使うのか。

え?全部必要なんだけど。

だからやる事やって、お金貯めて使って、お金貯めて使う。繰り返してるとお金への執着心が良い意味で無くなってきた。

問題なのは自分が今どのステージにいるのか客観視して、お金に使われるんじゃなくてお金を使う側になる事。本当に欲しいものを使えば欲しくない物が分かるようになってくる。お金は人を自由にも奴隷にもする紙切れ。

 

今は財布に対して〝髪の毛を切りたくて仕方なくなってしまうあの感覚〟は無いけど、また来るであろうその日はどんな財布を選ぶのやら。マネークリップかもしれないし、abrAsusをリピート買いするかもしれないし、HERMESに手を出すかもしれないし、CHANELで全部揃える!とか言い出すかも。

 

今は物欲の時期ではないけれど、こだわりの厳選メンバーは私の心を豊かにしてくれる同性の友達みたいな存在。

 

 

 

 

人にどう評価されようが、自分を生きる事を諦めない。

三流の美大に合格して粘度をこねくり回したり、油絵を描いたりする日々の中で【アーティスト・表現者】と呼ばれる行為に限界を感じ【クリエイター】という道に転向した。それは私にとって居心地が良く「見つけた!」と思える唯一無二の職業だった。

 

【アーティスト・表現者】と呼ばれる全ての人達の中でも結果(経済的自立・社会的貢献度・技能)が伴わず、「これが俺たちのやりたい事だぜ!!」と自己満足に陶酔する世捨て人に20歳の私はなりたくなかった。

【クリエイター】はお客様の作りたいものを作る仕事だ。お客様の夢を応援する仕事だ。お客様からお金を頂き、お客様の変わりに物づくりをする仕事だ。10年以上続けても「この仕事なら自慰ではなく、自分の得意な事で人の役に立てる。自分自身も喜びを感じ、お金ももらえる。こんな素晴らしい事はない。」と思える。でもね、思う事は沢山ある。

 

自分ではなくお客様の作りたいものを作っていると、時々自分を見失う。この仕事をしていると何かを広告する仕事や誰かとJoinする事が常。水ものの広告の表面を次から次へとコーティングし、価値のあるものに変容させなくてはいけない。でもプロだからそれをする。

 

「我」ではなく「共存」を常に選ぶ時、自分の中にあるアーティスティックさは滲み出るものだから誰かと共存を目指すくらいで丁度良い。と考えられるある種のドライさがクリエイターには必要なのだ。

 

他人が喜んでくれるものを作れて一人前で自分が喜ぶものを作ってお金をもらうなんてナンセンス。その葛藤はクリエイターの一端なる者全てが通る道で、全クリエイターは優れたアーティストのように血肉を晒し人々に良い影響を与える仕事が出来ることをどこかで願っている。

 

誰かや何かをブランディングする仕事をしている人は、自分をブランディングするのがとても不得手なのかもしれない。

それは誰かや何かのためにそのスペックを使う事は良しとしても〝自分のために〟となるとそれは途端に承認欲求に変わり、虫唾が走るくらい恥ずかしい行為に変貌するからだ。

 

 

ずっと心に残っていた事がある。いつかの夏。知人の芝居を観に行った。彼は結婚して妻子がいたけど、どうしても役者の夢が捨てきれなくて妻子とではなく夢と生きる事を選んだそうだ。そんな彼の芝居に興味が湧いて観に行った。

すると途中から車酔いしたような感覚になってしまった。失礼だから我慢して観たけれど、ようやっと幕が閉じると私は挨拶もせずに劇場を後にした。「どうだった?」と聞かれて「良かったです。」とは絶対答えてあげられなかったから。

 

内容が薄い割に台詞が多かった。コメディーなのに全く笑えず、一度も私は笑わなかった。笑わせようとしてくる種類の笑い。台詞を一生懸命聞いたり、踊りを見ることに集中する余り、私は〝何かを感じ取る余白〟を失ってしまった。

あんなに何も残らないエンターテインメントは初めてだった。でもハッキリ分かってしまった。舞台に立ってる彼は役ではなくて〝彼のまま〟だった。演じる人はそれではダメだって事。第一線を走る人とそうじゃない人の違い……

そんな残酷な感想ばかりが湧いてきて、アーティストを生業にし、人からお金を頂く難しさを痛感した。

 

今度彼に会ったら私はどういう顔をすればいいんだろうとあの時思った。時間が経った今でもあの舞台そのものに「良かったよ。」って優しい嘘はつけない。大人気のない大人になりたくないのに。本当は「よかったよ!私には届いたよ!」って言ってあげたいのに。

 

幼い時から私はこの【アーティスト問題】を心の片隅に置いて、ずっと考え続けてきたのかもしれない。

 

ナンバーガール向井秀徳はライブのMCでこう言った。

「売れる売れない関係なく、格好のよろしい音楽を作れたら万々歳」

それができたら、観客は歓喜する。

それがアーティストでロックだ。

 

だからアーティストは芸を追求していくことしか究極、できない。実は至極シビアで至極結果主義な世界。でも間違いなく、売れる売れない関係なく何か人に届けたくて舞台に立っている人は多くいる。

それが人に届くか届かないという違いがあるだけなのだが、明確にアーティストとアーティストもどきは雲泥の差がある。

 

AKB48高橋みなみは言った。

人生というのはね、きっと「矛盾と闘うもの」なんだと思います。色々思うことがあると思う。でも、頑張らなきゃいけない時っていうのがある。頑張らなきゃいけない時っていうのは、一瞬ではないということを、みんなに覚えておいてほしいなと思います。

272人、今回立候補しました。呼ばれたのは80人でした。呼ばれなかったメンバーは、では頑張っていなかったのか。

違います。みんな頑張っています。

劇場公演に立ち続け、学業を両立して頑張って、自分のやらなきゃいけないことと一緒に頑張っているんです。

でも、ここに立てるのは80人なんです。

だからきっと、AKBグループにいればいるほど、頑張り方がわからなくなると思います。

どう頑張ったら選抜に入れるのか。

どう頑張ったらテレビに出れるのか。

どう頑張ったら人気がでるのか。

みんな悩むと思うんです。

でもね、未来は今なんです。今を頑張らないと、未来はないということ。

頑張り続ける事が難しいことだってすごくわかってます。

でも、頑張らないと始まらないんだってことをみんなには忘れないで欲しいんです。

私は毎年、「努力は必ず報われると、私、高橋みなみは、人生を持って証明します」と言ってきました。

「努力は必ず報われるとは限らない。」そんなの分かってます。でもね、私は思います。

頑張っている人が報われて欲しい。

みんな目標があると思うし夢があると思うんだけど、その頑張りがいつ報われるとかいつ評価されるのかとか分からないんだよ。

分からない道を歩き続けなきゃいけないの。

きついけどさ、誰も見ていないとか思わないで欲しいんです。

絶対ね、ファンの人は見ててくれる。

これだけは、私はAKB人生で一番言い切れることです。だから、諦めないでね。

 

 

アーティスト批判をすると自分の中にあるアーティストへの敬意と良心から、その言葉はまるまんま自分に返ってくる。

 

だって、表舞台に立ってない人はいくらでも好き勝手簡単に言える。それがプレイヤーと非プレイヤーの違い。努力して評価されるのが当たり前の世界で生きようとする人に対して、その生き方そのものを見守れる器が欲しい。だってどれだけ難しい事をしようとしているのか分かるから。

 

人にどう評価されようが、自分を生きる事を諦めない。その生き様を私はあの夏拝見し、受領した。今の私なら彼にきっとこう声をかける。

 

「私もね、物作りが好きなんです。私も人に〝何か〟届ける仕事がしたくてやってきました。あなたも大変ですね。でもあなたの芝居をみて私も頑張ろうって思いました。良いもの観させてもらってありがとうございます。」

 

私には届いたからね。

人にどう評価されようが、自分を生きる事を諦めない。

 

 

 

この世には自分以外に2種類の人間しかいない。他人か、愛する人達か

最近友人Cが【他人に興味がない】事をカミングアウトした。前々からそうだとは思っていたので互いに何の驚きもなかったが、人に興味津々すぎて占いまで習得してしまった私はその思考が知りたくて連日インタビュー。

 

「ねぇ。他人に興味がないってどういう事よ?」

 

私の場合は

10m:知り合い

5m:友達

3m:身内

1m:スペシャルなたった1人

に周りにいる人を分類する。

だけどCは「私のパーソナルスペースに入れても良いと思う人にしか関心はない。」と断言したのだ。

 

うん、分かる。私もパーソナルスペースに入れたくない人は「半径10m以上で泳いでいてください!」と願っている。「5mは近いんじゃー10mまで離れろー!」と近づいてきたら、近寄ってはいけないオーラを出して警告する。

それがCの場合、「私のパーソナルスペース以内か以外か。」という発想らしい。何そのRoland的思考。「この世には2種類の男しかいない。俺か、俺以外か。」かよ。

 

しかし考えてみると実に省エネで合理的。

その考え方を掘り下げていくと、知り合い、友達、身内、特別な人という概念すら無いのかもしれない(?)驚愕(!)

 

そういえば以前同じく他人に興味ない党の友人Tに「半径10m〜5mのグラデーションにいる人との付き合い方について」相談した時も、「私、誰にでも距離を置いて付き合うから分からないな。ごめん。」と言われた事がある。(戦慄)

その時は「なんだそのカッコいい台詞!私だって誰にでも距離置いて付き合ってるわいっっ!!」って思ったけど、今思えばその言葉の真意が全然分かっていなかった。

 

まず前提として、他人に興味ない党のアイデンティティーは「私」と「その他大勢」この2種類しか存在しない。だから適切な距離感もクソもない。

自分以外は他人なのだから誰に対しても一定の変わらない距離感が普通でしょ?

 

私は適切な距離感を保てない時はストレスが生まれるんだけど、他人に興味ない党は【私か、私以外か】なので「0か100か」「白か黒か」

つまり、グレーって色は存在しない。

白黒つけないでグレーゾーンを生きることが大人だと思って生きてきた私にはカルチャーショックだよw

 

もう一回言うね、白黒つけないでグレーゾーンを生きることが大人だと思って生きてきた私にはカルチャーショックだよwww

 

きっとGLAYってバンドも私と同じアイデンティティー。ラルク派だったけど、ここにきて一気に親近感。GLAY、お疲れ様!乾杯しよう!私たち、よく今日まで生きてきた。

 

この視点が「腑」に落ちた時、長年の人間関係の呪縛から解き放たれた気がした。クリア。透明。無色。

 

でも、追加インタビューで事態は一転する。「大事な人達が死んじゃったらもう立ち直れない。」と。でも同時に「でも所詮他人だからね。」と。「大事な人が先に死んじゃうのが耐えられないから人類滅亡で一緒に死ぬしかない。」と。パーソナルスペース内の人間への深い愛が垣間見えた。

 

浮かび上がった新事実。

【その他大勢向けの対応】

自分以外は他人なのだから誰に対しても一定の変わらない距離感が普通でしょ?

【パーソナルスペース内への対応】

大事な人が先に死んじゃうのが耐えられないから人類滅亡で一緒に死ぬしかない。

 

……差wwwww

 

でもブレてない。

「私のパーソナルスペースに入れても良いと思う人にしか関心はない。」と断言しているのだから。つまりは、【この世には自分以外の人間は2種類しかいない。他人か、愛する人達か】ってこと。

 

Simple is the Best. こちとら各カテゴリーに適切な対応をしようとしていたけど、そんな必要はなかった。きっとそれは私が大人として生きるためにプロテクトして身に付けた処世術。愛する人達が幸せでいてくれたらそれでいい。

 

そして自分にとっては他人でもその人の事を愛している人は絶対にいる。だから安心して私は私の愛する人の事を愛していけばいい。ただそれだけの事が時々すごく難しい。だからこそ親愛なる人との時間を大切に生きていこう。どう考えたって限りある人生。愛する人と生きながら、自分のために生きる。それができたら最高だ。きっとそれ以上も以下もないよ。

 

Thanks, For my dears(親愛なる人へ。ありがとう。)

 

静アダルト・フェチ

人一倍好きなんだ。上質で落ち着いた照明と店内。白いYシャツに黒いベスト首元は蝶ネクタイ。バーテンダーのシェイカーを振るう音がシックな音楽の上に重なる。いつもより少しだけお洒落した大人の談笑。大人の疲労感と責任感に一瞬の安らぎ。抱き締めたくなる後ろ姿。子どもが一人もいない大人だけに許される特別な場所。予定と予定の合間。日々の倦怠感を今しかない一時の微睡へと昇華する横顔。汗をかいたグラスの中で丸氷がまろやかに溶けたアルコールを口にすると「大人って最高。」って思うの。

人差し指と中指から煙が宙を儀式のように舞って海月のように朧月夜に溶ける夜。

 

嗚呼。バーに行きたい。

本物のカクテルを作れるバーテンダーがいるバーに行きたい。

 

特別でラグジュアリーな私にとっての【それ】は札幌にある。「ヨーグルトを使ったカクテル作れますか?」ってオーダーして「お口に合えばいいんですけど。」って完璧なカクテルを出してくれるあの場所が恋しくて恋しくて恋しい。去年行ったらまさかの月一回のお休みの日だった。そんな事ってある?

 

休日に氷を削って丸氷を作ってる本物のバーテンダーHさん。その横でそっといつもアラカルトを出してくれる奥様。会いたくて会いたくて会いたい。あのカウンター。あのグランドピアノ。重厚な黒い扉。

 

東京に来てから、その場凌ぎのカクテルじゃなくて本物の一杯をずっと求めている。

漆黒の夜に蝶のように止まる静の空間。私はきっと、静アダルト・フェチ。

 

ロマンティスト。だからこそ、リアリスト。

最近自覚した事がある。それは【私はとてもロマンティストなのかもしれない】という事。【ロマンティストだからこそ現実と対峙し自分のロマンを実現させるために日々健闘しているのではないか説】が浮上中。

 

まだ仮説だけど、とても信憑性が高い説だ。

乙女だった頃は理想と現実の間で揺れて【Aが欲しいけどAのここが嫌い。Bはここがいいけど、そうするためには〜しなくてはならない。】みたいに物事と人の表裏一体を受容する事に時間と労力を費やしていたが、大人になった今は【全て丸ごと受け入れる。全ては表裏一体。良い所取りしようなんて思わない。】と、現実に根を下ろし、夢とロマンを叶えるために必要な事をして生きている実感がある。

 

物事を実現するには過程が必要不可欠。リアルを知らないから隣の芝は青く見える事を嫌と言うほど知っている大人になった現実の世界を生きる33歳の私は本を読むためだけに立ち寄ったカフェで、ぼーーっとホットティーを飲みながらそんな事を思った。

 

………「なるほど。」と自分で気づいて自分で納得してしまった。【私は現実主義ではなく、ロマンティスト。そのロマンを叶えたいから必要だと思うことをしている。】

 

………そうだ。そうだと本当に思う。世の中的にはロマンティストというのは現実的である事の対義語で地に足がつかずフワフワしている人だと思う(と、私は思っている)が、私は夢やロマンがないと生きていくのが難しい、とすら感じる。

 

夢やロマン。即ち、それは「目標」や「美学」という言葉で置き換える事ができるだろうか。目標や美学は私にとっての物事のバロメーターのようなもので重大な判断基準。人によっては目標を持たず機転を聞かせて柔軟に対応するほうが良さを発揮できるタイプもいるだろうけど、私はどうも目標なくフワフワと根無草のように生きるのが肌に合わない。という事が大人になるにつれてよく分かるようになった。

 

「私、こうする!!!!」と決断したら、そのために必要だと自分が感じる事をすれば良いだけだ。私は揺れるのが好きではない。理由は一択。疲れるから。

 

例えば、友達と会う場合はサッサと予定を組んでしまいたい。「とりあえずこの日にしておいてダメだったらやめよう。」みたいな約束は必要ない。だったらいつ何日に会おうみたいな具体的な約束しなくて良い。形式的な約束は無意味だと思ってしまうのだ。

この事を少し説明してみたい。

若い時はいつでも暇だった。でも大人になるとそうは行かない。だからこそ、各々の予定を伺い予定を組んで大人は人と会食する。

約束をしないで「今、暇?暇だったら会おうよ。」そうできる関係をマブダチと呼ぶのだと思う。マブダチ最高である。だが例えマブダチであっても、家庭を持ったり仕事があったりみんな色々忙しい事を理解しているから、約束をして大人は人と会うのだ。

「約束なんかに縛られたくもないし、縛りたくもない。だから、ふわっとみんなが予定合ったら会おうよ。」そんな事を言われたら、ロマンティストだねぇえ。と思ってしまう。きっとそれだと永遠に会えない事をロマンティストだからこそリアリストの私は知っているから。

 

みんな当たり前に日常がある。何かの責任を負いながら生きるのが大人。だからこそ、息を抜いて非日常で日常について語り合う場が必要なのだ。生き抜く事は息抜く事。それを知っているから大人は日時を決め、美味しい料理に舌鼓し、談笑を楽しみ、時間が来たらまたそれぞれの日常に帰っていく。その事がどうしようもなく切なく寂しい時もある。でも花火のように儚いその時間はとても素敵だとも思うのだ。

 

約束ほど相手を尊重し個と個を認め合った理に適った契約は存在しないと思う。勿論、絶対なんてこの世には存在しないから絶対に守れる約束なんか無い。それを理解している大人同士の約束は最高だ。互いの尊重と同じ時間を共に過ごしたいという敬意だけがそこにはある。

 

反対に【リアリスト。だからこそ、ロマンティスト】を想像してみる。私は先にロマンがあってそのロマンを叶えるために現実的になるけど、言葉を置き換えると【先に現実があってその現実を叶えるためにロマンをみる。】

………(?????)

 

私なりに翻訳を試みる。

【現実は嫌と言うほど知っている。私は大人だ。そんな現実で生きていくにはロマンが必要だ】

………(これならしっくりくる…!!)

 

なるほど。【パッと見が現実的な人ほど、ロマンティスト】【パッと見がロマンティストな人ほどリアリスト】そういうトリックか。

 

ロマンティストが現実で「目標」や「美学」を実現させるためにリアルを生きているのに対し、リアリストはこんな現実でも信じられるロマンを夢みているのかもしれない。その様がロマンティストに人には映るのかもしれない。

「こんな現実だからみんなが一緒にみられる夢があったらいいよね。現実は絶対なんかないから。」

だからこの世の絶対的真理みたいなものを見つけたくて夢をみるのかもしれない。泣けるぜ、リアリスト。………いや、あんたら絶対ロマンティストやろ、そらロマンティストに見えるやろ。突っ込まずにはいられない。

 

そしてそして多分。メビウスの輪のようにリアリストはロマンティストに、ロマンティストはリアリストとして生きることになるのだと思う。今回語ったのはどっちの「種」を持って生まれてきたのかという「違い」の話。

【ロマンティストの種:夢を叶えたいなら現実を知ろ。そして実行しろ。】

【リアリストの種:現実を知っているからこそ大志を抱け。そして諦めるな。】

 

という所だろうか。前者は白から黒にグラデーションがかかっていき、後者は黒から白にグラデーションがかかっていく。きっとハッキリと白や黒に色が変わる瞬間は限りなく少なくて、いつもグレーゾーンを我々は生きている。ロマンティストは現実的に、リアリストは夢想的にグレーゾーンを。どちらが優れているかなんて優劣は存在しない。私たちは互いに違いを教え合う鏡なだけ。

 

季節は夏のど真ん中からまた違う季節へ色を変える。気がついたらまた「今年も早かったね。」なんてお決まりの台詞を言うのだろう。その過程でいくつ約束を交わすか分からないけど、ロマンティストだからこそ現実的な私は実現可能な約束をして「私たち大人になれなかった大人だよね。でもしっかり大人だよね。」って笑い合う。そこには違いは存在しない。私は全ての大人が愛おしいと感じる。

 

 

 

 

 

 

アンビバレント

アンビバレントとは「相反する感情や考え方を同時に心に抱いている」さまを指す言葉。

俳優 三浦春馬氏の突然の訃報に接し、私が辿り着いた言葉です。

 

彼は超売れっ子でダンスも歌も演技もできるパーフェクトイケメンだった。英語も喋れて料理もできて筋肉もムキムキで彼の歌とダンスを見た時、努力の塊みたいな人だと思った。しかも性格も優しくてきめ細やかな気配りをする人だったようだ。

私はびっくりしすぎてぽかんとして何が起こったか調べたら更にぽかんとして、30分くらい「なんで、どうして、」ばかりだったけど更に30分くらい経ったらすごい悲しくなって携帯の画面越しに故人を偲んだ。

 

彼の訃報に接し、「コロナが終わったらどんなに短期間でもいいから絶対海外に語学留学するぞ。」と心に決めた。私は英語の勉強をして喋れるようになった彼から良い影響を受けていたから。肩書きに制限されず自分を表現して良いと彼から学んだから。彼が居なくなって私はとてもとても悲しい。

 


人には色々な役割が有る。

その役割を果たして、やっと自分の自由な時間を得れるから目の前の事を頑張れたりするけど、彼は役を演じても演じても〝本当に心から自分が喜びを感じる自由な時間〟を生きることができなかったのかもしれない。「本当に自由になるまでは。」と、スキルを磨いて有る程度の領域に達し、人からは完璧と呼ばれたけど、自由になるという選択肢は気がついたら「自死」しかなくなってしまったのかもしれない。相談したって「今のキャリアを捨てるなんて勿体ない」と言われるだけなら相談は意味のないもの。

 

自分自身も自分が恵まれている事は分かっているのに体は鉛のように動かなくなる。そもそも他にどうやって生きていけば良いのかも分からないし、そこに自分の活動で飯を食っている人がいる責任が加わり鉛に釘が刺さったように動けなくなる。


そのうち「必要とされているうちが華。」って必要とされている役割を頑張って果たそうとする。「求められている場所を居場所として頑張ろう。」って。


バランスが取れている時はとても高く飛べる。でもバランスが取れなくなると奈落の底に落ちる。でも落ち込んだ状態では良い仕事はできない。仕事を休みたい。仕事を辞めたい。誰かに迷惑をかける。だからあと少し頑張ろう。また頑張ろうとする。


ある日このまま頑張り続けることはできないだろうと思うようになる。生きている事の喜びより、無気力感、疎外感、孤独感が勝るのだ。理性が止まって、もういいやって。


苦しみから逃れたい一心で境界線を超えたある日フワリと自死を選ぶ。


孤独と疲労の蓄積。少なくても私は自死を選ぶ心情が少しは理解できる。自死って昨日今日考えてできることじゃない。


本当の自分の気持ちを押し殺して昨日までずっと頑張ったんじゃないかな。でも「本当の自分」みたいものを形成する時間すら無かったのかもしれない。それってすごく苦しい。


それでも自信がつけたくて、歌・演技・ダンス・語学・筋トレ・料理、色んな事を学んで努力して習得してそのスペックを彼は役者として使うけど、このまま頑張り続けないと今の立ち位置が無いという恐怖とプレッシャー。

猛烈に誰かに甘えたかっただろうけど、それはできなかった。

 

取り繕わないそのままの自分というのは誰かを傷つけてしまうかもしれない。だから気を遣って接して、また「本当の自分」というのは何なのか輪郭はぼかしておく。

その繰り返し。

それが分かるから、もう頑張らなくていいよと声をかけたい。


アンビバレントが統合され、どうか今は安らかでありますように。

学習の4段階

私の英語の先生からのメルマガが秀逸だったので備忘録で残しておきます。

 

In the 1970s a man named Noel Burch was working as a communications and leadership trainer. During the course of his work, he noticed that people tend to move through four stages of learning.
1970年代、ノエル・バーチという人がコミュニケーションとリーダーシップの分野でトレーナーとして働いていました。その仕事をしているうちに、彼は、人は物事を学ぶ時に4つの段階を経る傾向があることに気づきました。

 

These four stages can be seen in acquiring many skills from learning to drive a car to learning English. When you understand them you can see where you are in the learning process and realise that everyone goes through, indeed has to go through, the same phases.
この4つの段階とは、例えば車の運転の仕方から英語学習に至るまで、様々なスキル習得の際に見られます。この4段階について理解すると、自分が学習プロセスのどこにいるのかがわかります。そして誰もが、本当に同じ段階を踏んで進んでいくことに気がつくのです。

 

1. Unconscious incompetence - this means that you don’t know, what you don’t know, and is a state of ignorance about how and what you need to learn.
無意識的な無能 - 何が分からないかもわからない、何をどのようにして学ぶべきかを知らないということを意味し、無知の状態です。

 

2. Conscious incompetence - this is where you start to realise how and what you have to learn. It is daunting because at this point you become aware of how little skill you have. Learning requires a lot of effort and many, many mistakes.
意識的な無能 - 自分がどのように、何を学ばなければならないかに気付き始める段階です。この時点で自分のスキルがどれだけ低いかに気づくため、困難な道に感じられるでしょう。学習には多くの努力と多くの失敗が必要です。

 

3. Conscious competence - here you have started to gain some ability and you know what you still have to learn. You can use what you have learnt, but it still requires concentration and effort. You still make many mistakes.
意識的な有能 - この段階では、あなたはある程度の能力を獲得し始めており、さらに学ぶべきことが何であるかを知っています。学んだことを使うことはできますが、それにはまだ集中力と努力が必要です。まだまだ多くのミスもするでしょう。

 

4. Unconscious competence - by this stage you have absorbed the skill and the use of what you have learnt is automatic. It doesn’t require much concentration or effort.
無意識的な有能 - この段階までにスキルを吸収し、学んだことを自動的に使うことができるようになります。この段階になると、あまり集中や努力を必要としなくなります。

 

These phases work on a macro and a micro scale. This means it applies to the skill as a whole, but also to the particular sub skill you are working on.
これらの段階は、マクロとミクロのレベルで機能します。つまり、大枠としてのスキルに当てはまるだけでなく、あなたが取り組んでいる特定のサブスキルにも当てはめることができるということです。

 

The main thing to take away from this is to realise that the conscious incompetence phase is particularly hard and it is a place where a lot of people give up when learning English, particularly beginners. If you keep putting in the effort though, you will push through to a conscious competence and start to feel like you are making progress. Learning something is hard, but don’t let that stop you.
ここから学ぶべきことは、意識的な無能の段階は特に手ごわい時期であり、英語を学ぶ時に多くの人があきらめてしまうステージだということです。しかし、努力を続ければここを突破し、意識的な有能へと進み、自分の進歩を感じられるようになるでしょう。何かを学ぶのは難しいことですが、困難に出会っても負けずに頑張りましょう。

 

 

 

ヨガに関しては毎朝歯を磨くように1時間できるようになった。でもそれまでは週に1回から始まり、週5を継続したり、2週間休んでみたり。今のように毎日継続が自然と習慣になるまでに一年かかった。という事は英語の勉強をする習慣も一年はかかるという事。

 

一年半前はヨガもしないといけないし英語もしないといけないし仕事も家事もある…って選択肢があり過ぎてどれかが中途半端になったけど。努力しないでヨガを継続できてる今はヨガでの経験を英語に生かせる気がしてる。

 

ヨガは実践哲学。英語もベースは同じだと思う。目標決めて頑張ろう。