unplugged

アンプラグド[unplugged]: 生楽器だけで演奏すること

型にハマる

アーサナ(ヨガのポーズをとる事)で一番思い知るのは〝型にハマるのが嫌い〟という自分の性格。


思えば〝型にハマる〟というキーワードは私の人生で度々登場する。

私には小さい頃から「何故型にハマる必要があるのか。」というのを一々考える癖がある。最早習性と言っても良い。

とにかく枠組みやルール、規則などの決められた事柄に対してそれが何故定められているかを知りたい。

 

高学歴を目指してる人には「何故それを目指してるの?着地地点はどこ?」と聞きたくなる。それは別に正しい答えを他人に求めているわけではなくて、どういう思いで取り組んでいるのかを知ることで〝この人ってこういう人なんだな〟とその人を知る事が出来るから。

 

世の中無数の仕事や趣味があるけど、何故それを始めたのか・何故やってるのか・何故続けているのか。。その部分が理解できたら点と点が繋がって一を十で知るように水を得た魚のように理解が早くなる。

とにかく私は自分の頭で考えなかったのに後から誰かのせいにしたり、自分の人生に責任を持たないというのが気持ち悪くて耐えられない。

 


小学校のマラソン大会の時、何故走らないといけないのかが納得出来ずにず〜〜っと歩いてビリになった。

先生が自転車に乗りながら隣で「頑張れ!頑張れ!」と私に檄を飛ばしながら一緒に走ろうとしてくれたけど「何で走らないといけないの?」と質問したら、先生自身もその答えが分からないようだった。

 

『先生はどう思うのか答えてくれて納得できたら走ろうと思えるかもしれないのに、、答えられないことを生徒にさせないで、、』と思ったけど、その先生は夏になると生徒にスイカを振舞ったり人柄の良い先生だったから私は何も言わずに歩き続けた。切ない。


きっと先生は『そう決まってるから!』って思ったと思う。マラソン大会がある学校なんだからそれに従いなさい、と。でもそう答えたら私のことだから「なんでそう決まったの!?」と質問していただろう。

この子はそういう子だから沈黙が金、と見抜いたのだと思う。

 


大人になった今は〝自分の人生において無駄か有意義かって事も一理あるけど、まずやってみよう!楽しいかもしれないし!!〟と考えるけど、今でも色々な事柄に「それはどうして?」と思う習慣は抜けない。

そういう時に正しいとか正しくないは求めていないから、自分の考えを述べてくれる人は信用できる。グッとくるというかキュンとくる。

ここでお前の意見は要らないよ、って時と意見してほしい時を見極めてくれる人ってコミュ力が高いなーと思う。

それより「あなたはどう思うの?」って人を試すようなこの性格は一体なんなんだ。


未だにマラソン大会は納得ができないけど、きっと高橋尚子有森裕子は走るの好きだから走ったんだろうし、〝結局私が走るのが嫌いってだけの話〟だとその件に関しては納めている。

 

 

 

そんな〝型にハマるのが嫌い〟というよりは〝自分で考えない事が嫌い〟な性格の私がヨガという謎のストレッチをしている。。。

 

謎のポーズをし、謎の呼吸、謎の瞑想、謎の動き、、、、全てが謎。でもこのポーズは肩に効くとか一応ロジックはある。実際に瞑想をしてみると視界がクリアになる。


無になる。無になる。無になる。。。

無があるという事は有るという対象と比べているから無ではない、、

有り有りと在る、、、

 


実際にやっていくと「こりゃ、続けていかんと分からない仕組みになってる。」と腑に落ちた。

 


頭じゃなくて、ヨガに関しては体が納得してくれた。頭じゃなくて体が「これは良いものだ。これはした方が良い。」と体がヨガをする事を選んだ感覚。体は本当に正直だ。頭で考えるより体のいう事を聞いたほうがいい。体という器官は優秀だ。

 


体が求めてる。体が動く。頭より体が先に動く時の心の軽やかさを知った時、「私はずっと頭でブレーキを踏んで生きてきたのかもしれない。。。」と思った。その日から、頭を使う頻度を下げた。

 

だからこうやって思考を文章に起こすという行為も久しぶりで、平成終わったし令和になったし世の中も推移していたけどその間に私は〝賢い人間は善〟という固定概念を葬り去った。

 

今の私は何故ヨガを続けているの?と聞かれたら「頭で散々色々な事を今まで考えて生きてきて、ある時を境にもう考えるのやめようと思った。その時に出会ったのがヨガだった。」という答えになると思う。

 

 


頭でなんでも考えない。

 

それはつまり言葉で解決しようとしない事。

ただただ自分の積み重ねた行動に対する信頼が増すように選択を重ねていたら、『運動が嫌いだと思ってたけど走るのが嫌いなだけじゃん!』と腑に落ちた時めちゃくちゃ感動した。


納得なんてしないまま体に全てを委ねれば体が作られ、その体が気付きをもたらしてくれる。体が資本とは良く言ったもので、体という型がなければ私も存在しないのだ。じゃあその型をどうするか、という事を真剣に考え実践してみてもいい。

体は生きている間レンタルしてる借り物。この体を自分にとってベストな状態にして、満足して満を持してお返ししたい。

 


理解するのは全て動いた、後。


きっと信じるという事は実践し続ける事。クリスチャンが日々祈っているのは、その行為を信じているからだ。日々祈っているからクリスチャンはクリスチャンであって、ヨガも実践しなければヨギーではない。ということは人は実践する事でしか何者にも成れないという事。まず、傾倒せよ。という事。現代の何者でもない俺私病は何かに傾倒するしか治癒しないんだろう。

若者よ、傾倒しろ。夢中になれるものに時間もお金も労力も傾倒しよう。お金ないならバイト増やそう、副業しよう、テレビ見る時間減らそう。お金が言い訳になるならお金を先に稼ごう。

 

しんどい!しんどい!でもやるしかないからやるけどね!あはは!

 

それでいいのである。

 

 

 

ヨガと宗教

宗教の世界では自分達が正しいという価値観があるから違う価値観を「こちらの方が正しい。こちらの方が優れている」と否しがちだけど、ヨガは否定する事もしない。個々が密教的に修行し、調和を目指していくものだと思う。調和を目指しているから否定も肯定もないのだ。


ヨガの派生自体はヒンドゥー教の修行法、禅は仏教の修行法と言われているのだが宗教では、ない。何故なら死生観は問われないし、ヨガをするなら〇〇はしちゃダメ!行っちゃダメ!食べたらダメ!という制約がないから。ヨガしてる人専用の墓とか、ない。

 

ヨガインストラクターは「ヨガって宗教なの?」って聞かれたりする事もあるだろうと思うし自分でも思ったりする事があるかもしれないけど、私の考えは上記の通り。

私だったら「ヨガって宗教なの?」って聞かれた時に言語化して生徒に歴史に則った正しさと自分の意見両方言える先生を信用するし、そういう先生にヨガを教えて頂きたい。

 

知ってるって事は説明できる、ということ。

 

あぁ。先生って大変なお仕事ね。ご苦労様です。


不思議とヨガをしていくと、ヴィーガン料理とか健康食を好むようになったり、明らかに体に良くないよね。というものは避けるようになっていくから不思議。それも体が正直になっているという事だから体に委ねればいいのだと思う。

 

体を信用する。っていうのが今まで脳を酷使してきた私の結論。


と、ざーーーーっと思いつくまま書いてみたけど、まだまだ、出てくるんだよね。ヨガ考察はキリがない。

 

型にまず型破りって型ハマって型を習得するから型破りなわけで。

何事も型にハマるって大切なことで基本。基本って本当に大事。基本、基本、基本だわ。基本に基づいた考察じゃないとそれはオリジナリティーでも何でもない。

あのピカソだって本当はダヴィンチみたいな絵が描けるのだから。


ではまたすぐに。